2010年1月8日金曜日

№222) ノルディック・ウォーキング/その起源を検証する(その1)

現在取り組まれているノルディックウォーキングは、クロスカントリー・スキー術をウォーキングに応用したものである。

そこで遡ってスキーの歴史を紐解いて見ます。JOC-財団法人日本オリンピック委員会は、スキーの歴史を実に簡潔に、以下まとめています。


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http://74.125.153.132/search?q=cache:b1RApvuetJIJ:www.joc.or.jp/sports/skiing.html+%E3%82%AF%E3%83%AD%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC%E3%81%AE%E6%AD%B4%E5%8F%B2&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp


***以下「スキーの歴史」引用はじめ*****

スキー(アルペン・クロスカントリー・ジャンプ・ノルディック複合・フリースタイル・スノーボート)Skiing

競技の歴史

スキーは北欧地方で狩り用の履物として、生活の手段に紀元前から使われていました。ノルウェーのレエティの岩には、現在のスキー板に近いものを履いている狩人の絵が彫られていて、およそ4500年前のものといわれています。その後、スキーは戦争に利用され、すでに850年頃のノルウェー北部の戦争には、スキー部隊が登場しています。

スポーツとしての最初のスキー競技は、ノルウェーのテレマーク地方に発生しました。1800年代にはこの地方の子供たちは、スラロームやジャンプをして遊んでいて、今でもテレマークという地名は回転の名前に用いられていますし、スキージャンプ競技の着地の姿勢でも有名です。

オリンピックのスキーには、山を滑り降りる速さを競うアルペン、飛距離を競うジャンプ、丘陵や森林の中を走るクロスカントリー、クロスカントリーとジャンプを組み合わせたノルディック複合、斜面のコブを利用してジャンプしアクロバティックな技とスピードを競うフリースタイル、一枚板に横向きに乗り、ストックを使わずに滑り降りたりハーフパイプの中を振り子のように移動しながらトリックの難易度を競うスノーボードの6競技があります。

日本での競技の歴史

日本に最初にスキーが伝わったのは1911(明治44)年、オーストリアのテドール・エドラー・フォン・レルヒ少佐が現在の上越市で教えたスキー講習会に始まります。持参した2組のスキーを見本に10台のスキーを作らせて指導したもので、一本杖をストックにして滑るスキーでした。翌年には飯山から野沢へと伝わり、やがて全国へと普及し始めました。とはいえ、当時はスキー用の服などなく、軍人は軍服で、女性は着物に袴といった様相。スキー板も木材を囲炉裏であぶって作る自家製でした。

1924年に初開催となった冬季オリンピックに、日本は第2回から出場しましたが世界の壁は厚く、第7回コルチナ・ダンペッツォ冬季大会で猪谷千春選手が手にした、回転での銀メダルが日本にとって初のメダルでした。その後は第11回札幌冬季大会での、ジャンプで金銀銅を独占した日の丸飛行隊、第16回アルベールビル冬季大会でのノルディック複合団体の金メダル、第18回長野冬季大会のジャンプラージヒル団体の金メダルなど、厳しい戦いながら選手たちの健闘が光る結果となっています。


***以下「スキーの歴史」引用おわり*****

うーん!!! なぜ「ノルディック」という名称がついたのかこれで明確になりました。さらに日本で「ストック」という言葉が使われるのは、レルヒ少佐が日本で最初に伝えたときに、彼が母国語のドイツ語で「ストック」と伝えたことに起源があることも。


それは今から丁度100年前の出来事である

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%86%E3%82%AA%E3%83%89%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%82%A8%E3%83%BC%E3%83%89%E3%83%A9%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%B3%E3%83%BB%E3%83%AC%E3%83%AB%E3%83%92

***以下「レルヒ少佐」Wikipedia引用はじめ*****

テオドール・エードラー・フォン・レルヒ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

テオドール・フォン・レルヒ(Theodor von Lerch, 1869831日 プレスブルク - 19451224日)は、日本で初めて本格的なスキー指導をおこなった、オーストリア=ハンガリー帝国の軍人。日本では一般的には「レルヒ少佐」の名で知られる。

日露戦争でロシア帝国に勝利した日本陸軍の研究のため、191011月に交換将校として来日。スキー教師として来日したわけではないが、日本陸軍では八甲田山の雪中行軍で事故をおこしたばかりだったこともあり、日本陸軍はレルヒのスキー技術に注目し、その技術向上を目的として新潟県高田(現在の上越市)にある高田歩兵第58連隊(堀内文次郎連隊長)の営庭や、高田の金谷山などで指導をおこなった。レルヒが伝えたスキーは杖を1本だけ使うスキー術であり、現在主流の杖を2本使うスキー術のひとつ、「アールベルグスキー術」は1930年のハンネス・シュナイダーの来日まで待たなければならなかった。

19122月には北海道の旭川第七師団へのスキー指導のため旭川市を訪れている。4152130分、北海道でのスキー訓練の総仕上げとして羊蹄山に登るため倶知安町に到着。16日午前5時に出発の予定であったが、雨のため1日延期。17日に羊蹄山登山を行い、また羊蹄山の滑走も行っている。レルヒの羊蹄登山には小樽新聞・奥谷記者も同行している。

その年の10月ごろに帰国したという。

現在、新潟県上越市高田の金谷山には日本スキー発祥記念館が設置され、レルヒの業績を伝えている。また毎年2月上旬に「レルヒ祭」をはじめとした各種記念イベントが開かれている。

***以下「レルヒ少佐」Wikipedia引用おわり*****






そーかッ
!!! ロシア帝国に勝利した日本陸軍を研究するためレルヒ少佐は来日した。うーむ



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